波多野千寿  2015


ギャラリーカメリアにて
ギャラリーカメリアにて

初めてお会いしたのは、1996年表参道にある同潤会アパート内のギャラリーpigaでした。友人の初個展の企画をしていて、前室が千寿さんで後室が友人。同潤会アパートの中庭の緑が美しく、室内は器に描かれた草花でいっぱいだったのを思い出します。これまでも箱根湿性花園、花の木(銀座)世界観ギャラリー(御茶ノ水)、遠くは札幌、青梅など隔年、精力的に個展を開催されています。
2014年12月は、同潤会アパートと同時期に建造された奥野ビル内にあるギャラリーカメリアで個展を開き、同潤会アパートでの展示を彷彿とさせるあたたかい光に包まれた空間が生まれました。これを機会にゆっくりお話しをお聞きしたいと思い、2月にご自宅の工房にもおじゃましてインタビューが実現。
数年前までご自宅で教室を開いていたという広々とした作業場とふたつの大きな窯(電気窯と現在は使われていない灯油窯)がでんとあり、乾燥中の器や道具のあるテーブルの下には庭で採れ過ぎたというザボン(晩白柚)がごろごろと置いてあって和みます。ついつい録音もせず話が始まり、アトリエから食卓、台所、リビングと座る間もなく家じゅうを案内していただきながら、エピソードを拾い集め、茶飲み友達のようなインタビューとなりました。
再就職先として陶工になる為に瀬戸(愛知県)の職業訓練校に入り、結婚、北海道へ転勤、育児の合間に意欲的に制作と発表を続けてきたバイタリティは華奢な彼女から想像もつきませんが、笑顔で今までを語る千寿さんのお話に聞き入るばかりでした。

台所にろくろ!

さて、まず広い台所は鮮やかなオレンジ色で統一されて、入ってみると脇のちょうど階段下にあたる場所にロクロがあり制作できるようになっています。これは工房とは別に備えられたものでした。

こどもが小さな時は、シチューとか作りながら脇で制作していたの。便利でしょう。若い頃は夜も仕事していたから。1989年に初めて六本木で個展をしました。下の子が小学2年生だったかな。2年生ならもう大丈夫!だと思って。

えっ(笑)2年生なら大丈夫ってどんなところでそう思ったんですか?

だって1年生は学校に入ったばかりだから心配だけど、2年生はもう慣れてきてるじゃない。そしたら1人で会場に来てくれた。花をもって。よくわかったわねって言ったら個展のはがきの地図見て来たって。すごいよね。今はそう思う(笑)。

ー職業訓練校に入る

そもそも陶芸家になろうと思ったきっかけは?

きっかけねぇ。瀬戸(愛知県)の職業訓練校に行く前に1年だけ中学校の教員をしていました。若気の至りと言えばそうなんだけど、、、。職員室の隣の席にいた方が、職業家庭科(現、技術)の先生で父くらいの年齢の方で気が合う人でした。シベリアへ抑留されていた経験があって、よくその話を聞いていたんです。まさか私が転職するとは思わない から、生徒の為にといろいろ職業訓練校のことも教えてくださったの。

職業訓練校に飛び込んでみてどうでしたか?

大変だった~。朝8時から4時まで毎日。土曜日は半日だったけれど。1週間に1度、焼き物についての講義があって。あとは実習で、土練りからね。これができないの(笑)。それからお湯呑をひたすらひく。それも下手なの(笑)。

千寿さんの工房
千寿さんの工房

電動ですよね?

そう、蹴ロクロじゃないわよ。瀬戸だけど磁器はやらなかった。瀬戸でも赤津に近いところだったから、粒子の細かい粘土だった。湯呑の次は底をけずる、高台。それから型どりというのかな、ちょっと説明しずらいけど。お鉢とかお皿を作る練習をして。素焼や釉薬のかけ方とじょじょに。それから、ちょっと病気をして。その後雑器を作る窯元で働いて、そこは分業だからロクロひく人、けずる人、絵付けする人という具合です。それから結婚して東京に行ったんですが、瀬戸で一緒だった方が新橋の仕事場を紹介してくれたんです。

 

新橋ですか。

そうなのよ。ちょっと怪しげなところだった。住まいは国分寺で新橋まで週4日くらい窯焚きに行っていたかしら。それから母が病気になって辞めて。1970年代は陶芸の第一次ブームというのか、それから国分寺にも窯ができたので、そこで窯詰めしたり教えたりする仕事ができたの。最初の子が1975年だからその前まで。
その頃は大変だった。名古屋にいる母が癌で手術して、私が出産してから次の年に亡くなって。
その間は名古屋と東京を赤ちゃん連れて往復することも多くて仕事はできなかった。そしてすぐ札幌に転勤になって、社宅だったけど四軒長屋みたいなところで家の外に土間があるような作りでね。裏手に窯買って焚いてた(笑)。(ささっと間取りを書いてみせる)若いからできたのね。

わぁー。。。。乾燥させるのはどうしていたんですか?

家のあちこちに置いてた。ロクロは土間で。東京に帰ってからは窯があるから社宅には入れなかった(笑)。そしたら千葉の流山にある一軒家を貸してくださる方がいて、そこへ。簡単な屋根をつくってそこの下に窯を置いていたんだけど8か月後にこの場所に引越しました。窯が置けて焼き物をしてもいいような建売を夫と2人で探しました。それから徐々にね。

陶芸に関しては独立採算

それにしてもご主人は「この人は陶芸をする人なんだ。」と始めから思ってくださっていたんですね。

そうだと思う。教室も開いて作品を売って貯めたお金と(夫の名前を借りて)銀行からお金を借りてこの仕事場と窯場を作ったの。お金を返す為に働いたふうな感じでした。
夫は瀬戸大橋の仕事で岡山県へ赴任したけれど、私はここで仕事を続けました。この工房が今の形になってから20年以上は経っていると思う。

作風についてお聞きしますが、土の種類や、絵付け、象嵌など技法も様々、用途のあるもの、最近ではオブジェやユニークなタイトルも多い自由な表現が千寿さんの魅力のひとつだと思いますが、これって昔からそうなんですか?

最初の頃は大きな作品と食器でした。庭にある恐竜なんかもそう。作りたいものを作ってきたと思うけど、大きいものは女流陶芸に出してたんです。会員になる前と会員になってからとあわせて10年くらい関わっていました。大きいのはあまり作りたくないけれど、1つくらいはね。2階に残っているのがあるけど見る?箱根湿性花園では、野の花と山の花などにしぼってきちんと植物名も記して発表してほしいと依頼があって出したもののひとつが残っています。

庭の恐竜
庭の恐竜

見に来ましょう!震災後に割れたひまわりの作品も展示されていましたね。

土の色は顔料少し混ぜて、気に入った色を出したりもしてる。ずっと還元焼成だったけれど、年をとって火を使う気力がなくなって酸化に変えたら全く土の表情が変わるのね。だから土に顔料いれてみたり、釉など考えてばかりの日々です。

映画大好き 本好き

タイトルが映画の題だったりしますね。リビングの大きな本棚にはたくさんの蔵書、DVDがぎっしり収まっています。


「春にして君を想う」とか。これはアイスランドの映画。おじいちゃんおばあちゃんの映画よ。「夜風の匂い」はドヌーヴの映画。映画大好きだから。「時にたたずむ」これは小説「時に佇つ」から。
制作していていきづまったりした時はどうしているんですか?

そんな大げさなもんじゃないから、いきづまるなんてないわよ(笑)。だってアートとかめざして作ってないもの。日用雑器を作って売っているというだけ。ただ1つひとつ丁寧に仕事をすることは心がけています。

自分は職人だってよく言われますよね。

職人ではないけれどね。職人ならもっとピタッとしたきちんとしたものを作る。私は気持ちとしては職人にあこがれる。ホントは、本当はきちんとある一定の時間内に品質の良いものを作るのが職人だよね。美しく、ちゃんと。だから職人さんにはなれていない。職人だったら同じようにきちんと並ぶものね。でもアーティストとか芸術家とかは私とは関係ないと思っているから。

器も表情がひとつひとつ違い、選ぶのに真剣になります。私の両親の実家が唐津にあり、ふだん使いの器を市内にある御茶ノ水窯に行くことがありました。母の友人が嫁いだ先でもあったと後から聞いたのですが、そういうぬくもりのようなものを千寿さんの作陶にも感じます。話は変わりますが、千寿さんの作品はひとつひとつに季節や詩を感じます。それにタイトルからいろいろなことを想像できる楽しさもあり。

わが家の玄関に咲いている石の花
わが家の玄関に咲いている石の花

そうね。そうかな。

 

ちょっとなぞなぞっぽいようないたずらっぽいような(笑)

オブジェも多いですよね。

むくの桃色のカバン、わが家にあります。

開かない、重いペーパーウエイトみたいなもの。

小さな千寿さんです(笑)。

DMを机に並べながら

ひとつ展覧会をするとまた別の方から、うちでやってみる?というようにつながっていくのね。先のことを考えてというより、自然にそうなっていった。自分のできることをやっていくと続けられるの。
ふつうに(笑)

作っているとね、あ、もうちょっとここを違うようにしてみたいとか次々と浮かんでくる。
でも続けられた最大の理由は結婚して生活を支えてくれる人がいたから。人は自分の力で食べていくというのが私の理想だけれど、私はできなかった。 食べていくってかなり大変よ。

そうですよね。職業として成立するのは本当に大変だと痛感しています。

好きだと上達するし、なにより楽しくないと。

そしてまた工房にもどり、これまでの絵付けの為の膨大な数のスケッチを拝見しました。千寿さんといえば、野山の草花や実など季節感あふれる絵付けの作品が多く、ファンにとって楽しみのひとつです。

手仕事が好き

2階にあがり、内も外も象嵌の大作の花器を拝見。脇には千寿さん自身で着物をリメイクした上着がかかっていて大振りのボタンが可愛らしい。かと思えば、中年になってからパントマイムを習って17年くらい続けられたとのこと。最近はダンス。そのダンスの振付スコアのようなものを見せていただくと、それがまるでパズルのよう。

右は自分用に編んだ下絵なしの一点もののひとつ。描くように編まれた楽しいセーターです。その他にも家族用に編まれたものもたくさん。

波多野 千寿 (はたのちず)
名古屋出身。
1971年より作陶を始める。
1989年初個展(六本木)
箱根湿性花園(神奈川)、ギャラリーPIGA(青山)、花の木(銀座)、世界観ギャラリー(御茶ノ水)他多数。近年では2014年ギャラリーカメリア(銀座)。隔年に個展開催。  

個展風景 ギャラリーカメリアにて
個展風景 ギャラリーカメリアにて

 

編集後記
まず部屋に入ると2人の息子さんが学校で作ったレコードジャケットのデザイン、風景画や立体などがいたるところにあり、千寿さんが目を細めてひとつひとつを紹介してくださったのが印象的でした。テーブルにこれまで開催した個展のDMを全て広げて、カードをめくるように話がはずみました。
食卓の脇の壁にミロコマチコのカレンダーがあったのでお聞きしたら、お友達がファンで送ってくださったとか。「自由で楽しい絵よね。どうしたらこんな絵が描けるのかしら?」
震災では笠間など多くの窯が被災しましたが、千寿さんの家は液状化で庭から噴き出した泥を数十袋も出したということでした。アトリエはベタ基礎だったから大丈夫だったとのこと。
来年、銀座一丁目奥野ビル内にあるギャラリーサロン・ドゥ・ラーで個展開催予定。またお知らせいたします。

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